交差点で立ち止まりふと考える人生の青信号【順調過ぎても楽しくはない】

慌ただしい生活の中で、時には立ち止まり周囲を見渡すことは時に大事なことであります。

そんなことを考えてしまう小春日和の休日は陽の光がただただ嬉しく全ての色が許せてしまいそうです。

そもそも青信号はそれほど良いものではない

もし、進む先の信号が全て青だったなら私たちはどんどん前へ進まされます。

目的に向かい迷うことなく前進していくことは気持ちが良いことです。ただし、道端に価値のある何かが落ちていても目に留まることはなく。物陰に楽しい出来事が隠れていても、それを覗くきっかけすらつかめないことでしょう。

目的地へ順調に向かうことでメリットがあるのは、そこへ到達することで確固たる成果が得られる時や生活の手段として行動を起こしているときです。

ただ、そんな時も残り時間の少ない青信号を急いで渡ってしまったりした時には、自分の余裕の無さに気づかされることになります。

理想的なのは残り時間が少ない赤信号か

もうすぐ青になる赤信号

急いで渡らなければならない終わりかけの青信号より、残り時間が少なくなってきてもうすぐ青に変わる赤信号は、焦りも感じず一息つける感覚もあって嬉しいものです。

しかし、その赤信号は色が赤でも意味合い的には「極上のハナマルな青信号」ですね。

そんな都合が良い信号も、私たちに迷いや選択を与える機会を失わせ短期的な目標をどんどん達成させてくれます。

こう考えると、社会生活に慣れきった大人にとって青信号は詰まらないものとも言えるでしょう。

街角の青信号は、周囲への興味を失わせるもので遊び心というものとも無縁な存在です。もし、赤信号が続いたり時間の迫った青信号に出くわしたなら、そこは自分の「遊び心」を試す場かもしれません。

そして、そんな考えを持つことも大人の余裕に繋がることでしょう。

プライベートな街角では常に選べる自由はある

車社会という視点からも考えると、赤信号が続くとスムーズに進まないし周囲など見渡す余裕もなくただ信号が青になるのを待つだけです。信号が青に変わっても、後続車を考えれば自由度は少なく緑色の信号がもたらす意味は「進め」と解釈されるでしょう。

仕事で街を歩くことや車の運転をすることは私たちの日常に目に見えぬ「せわしさ」を定着させるような効果があるのではないでしょうか。

私たちは常時仕事や通勤に縛られている訳ではなくて、時として自由な時間もあります。

プライベートな時でも仕事があるときでも、道の歩き方や持つ意識にそれほど違いはなく。大人の場合、どちらかと言えば通勤や仕事で歩く時間が多いため忙しい歩き方をしてしまいがちです。

私たちは、自分で感じるより自由な時間があって、それに気づくきっかけが少なく忙しさに押し流されるばかりなのかもしれません。

休日に歩道の赤信号に立ち止まったなら、自分には立ち止まれる自由や身の置き方を選択できる自由があることを思い出したいものです。そんな時、少し目線を変えればプライベートな街角にはきっと楽しいなにかが転がっているに違いありません。